「中村親方のプロフィール」
 


  • その他 : 日経新聞スポートピア掲載記事  女将さんとして中澤嗣子さんの記事
    (8月恒例ビアパーティにて 2006.8.6)

    (9月場所中日 審判席にて 2007.9.15)

    (親方母校 甲府西中学校にて 2007.10.10)



    (スポートピア「春場所の思いで」 日経新聞平成20年3月4日 掲載)

    山梨生まれの私が大阪の地を初めて踏んだのは一九三六年(昭和三八年)の二月二十五日。まだ新幹線は開通しておらず、相撲列車と呼ばれる貸し切り列車で、ほぼ一日がかりの移動だった。
    農家に生まれ、柔道をしていた私がスカウトされたのは、同年の初場所終了後。同郷の富士錦関(元小結 前・高砂親方=故人) が 「誰か、いいヤツはいないですか」 と恩師に依頼し、その先生が私のことを知って伝えたのが、きっかけだ。
    間もなく、関取が会いに来ることになった。父は断ったが、「一回だけ」と強引に家に来て「一度相撲を見に来なさい」と私を誘う。父は「一度見学すれば満足して戻ってくるだろう」と高をくくっていたようで、同級の3人で見に行った。
    その時に見た相撲の神秘さ。ライトアップされた土俵と、漂う雰囲気になぜか参ってしまった。 角界入りを即決し、父と喧嘩しながら二月二十四日に入門、翌日には大阪へ。あまりの急展開に母は寝込んだらしい。

    三月初めには新弟子検査がある。当時の私は176臓■沓沖繊身長は足りていたが、体重が合格ラインに3疎りなかった。当日の朝まで飯を詰め込み、師匠の車で移動。ぎりぎりまで水を飲んで、やっと受かった。
    胸にマジックで直接番号を書かれ、風呂で洗ってもなかなか落ちなくて困った。これで相撲がとれるとほっとしたものの、回りを見回すと体の大きい人ばかり。えらいところに入ってしまったと気づいたが、父にたんかを切った以上、後戻りできなかった。

    稽古も厳しいが、大変だったのは洗濯板に固形せつけんで関取の衣類を洗う洗濯だ。お湯を使うとパンツのゴムが伸びるから水洗い、浴衣はノリをつけなければいけなかった。すぐに溶ける粉せっけんが発売された時は、こんなに有り難いものはないと感動した。

    七四年の春場所は新関脇。前の場所で北の富士、輪島、琴桜の3横綱を倒して、注目されていた。ところが、初日の2日前になって額に帯状の発疹(ほっしん)が出て痛い。
    医者に「今場所は期待できません」と言われ、その通りになった。

    37歳で引退したもの春場所。前年の一月にアキレス腱を切り、さらに十一月の九州場所で左ひじを脱臼骨折した。翌年の初場所は新国技館のお披露目だったが、全休で土俵に上がれなかった。覚悟を決めた春場所、十両で負け越して引退を決断。二十二年やったから、燃え尽きたという感じで悔いはなかった。

    ちょうどその場所で、弟弟子の朝潮(現・高砂親方)が初優勝。パレードで旗手を務めさせてもらった。師匠の立場になり、まずは新弟子検査に受かるようにと気をもみ、ケガだけはしてくれるなと願う。
    この春は4人が新弟子検査を受検。出会いと別れが重なる春は、何かと思い出深い。


    (スポートピア「断髪式新たな旅立」 日経新聞平成20年5月13日 掲載)

    先月末、東京都内で部屋の元十両、一の谷(本名・木田崇帥)の断髪式を行った。15歳で入門してから16年余り、31歳まで頑張った。当日は後援会をはじめ様々な方にお越しいただいて、一の谷も相撲人生に区切りをつけられたと思う。
     一の谷と言うしこ名は木田家ゆかりのもので、江戸末期から5代すべて親類縁者が継いでいる。先代は一の谷のおじさんに当たり、現在は東京・外神田の神田明神近くでチャンコ店を営んでいる。
     弟子にと紹介してくれたその先代が、高砂部屋で私の一つ先輩だった。自分と同じく体が小さい。二人で食って食って体を大きくし、稽古、稽古で上を目指した。この先輩がいてくれたからこそ私も強くなれた。

     そんな思い出もあり、断髪式では感傷的になった。スカウトして以来、ひとつの屋根の下。入門当時の顔が目に浮かんだ。どんなに出世しても、いつかはまげを切る時がくる。分かっているが、やはり寂しい。 体が柔らかくて三段目、幕下まで出世が早かったが、器用貧乏な面があり、それが関取になるのを遅らせたのかな、などと考えた。
     自分の時のことも頭をよぎった。ボロボロになるまでやるだけやって相撲には満足したが、いざ、まげを切るとなると寂しくなった。 まげは相撲取りの命。明治時代に武士がまげを切って以降も、力士はちょんまげを結う事が許された。他の多くの競技では、一度ユニフォームを脱いでも、復帰すればまた着ることができるが、角界では一度まげを切ると現役復帰は許されないことになっている。

     だからこそ、弟子には思い残すことがないように、精一杯頑張ってほしいと思っている。中学卒業とともに入門し、貴重な青春時代を相撲にささげるのだから、一生懸命打ち込んで、辞める時には「おれは相撲をやった」「稽古が厳しくて、うるさい中村部屋でやるだけやった」と誇りを持ってもらいたい。
     「石の上にも3年」と言うが、うちの部屋では10年をメドにして、必死にやった者だけに断髪式を行っている。途中で逃げ出した者は断髪式なしで、出入りも禁止。厳しいと思われるかもしれないが、一生懸命やった者を大事にしてやりたいから一線を画している。

     力士だけでなく、スポーツ選手は現役を引退してからの残りの人生の方が長い。一の谷は焼き肉店で修業する。決して甘くないだろうが、相撲で覚えた我慢と誇りを胸に、そこで頑張ってもらいたい。
     そして、気が向いたら部屋に遊びに来ればいい。今でも元弟子たちが正月の挨拶に来たり、結婚式の招待状をくれたりする。そうしたことに、現役中の出来事とはまた違う、師匠としての喜びがある。




    (スポートピア「生涯一番の突っ張り」 日経新聞平成20年6月17日 掲載)

    両国国技館の正面入り口を入ってすぐ右側に歌碑が建っている。「ひさしくも みざりしすまひ ひとびとと 手をたたきつつ 見るがたのしさ」一九五五(昭和30)年五月、昭和天皇が戦後初めて蔵前国技館に行幸された際に詠まれた歌である。「すまひ」は「すもう」の古語。昭和天皇の相撲好きは有名で、何度も足をお運びいただいた。

    その天覧相撲で一九七五の夏場所中日、麒麟児(現北陣親方)とぶつかった。互いに譲らず、激しい突っ張り合いになり、数えた人によると手数は互いに50発を超えていたとか。口の中を切った私は相手のいなしに乗じて突進したが、うまくまわしに手をかけられて土俵下に転落した。
     相手は5歳年下で、番付を駆け上がってきたところ。自分と似た押し相撲力士であり、絶対負けたくなかった。この時が3度目の対戦で連敗中。さらに言うと、場所後に結婚を控えていた。結果は7勝8敗で負け越したから、大きな一番だった。 そんな訳でいつも以上に気合が入っていたから当然悔しかった。

    しかし、同時に力を出し切った満足感に包まれたことも覚えている。この相撲を昭和天皇が身を乗り出して観戦され、手をたたいて喜んで下さったという話は、後から聞いた。

     生涯で一番思い出に残る一番が取れたのは「絶対に引かない」「自分の相撲を取りきるんだ」と言う気持ちで双方が臨んだからだと思う。後世、好勝負と呼ばれるものは、ライバルなくして語れないものだ。
     弟子にもよく言うのだが、けいこ場でできないことは本場所でもできない。普段から一生懸命やっていないと、急に土俵でいい相撲をとろうと思ってもとれない。

     自分は徹底した押し相撲だった、これは入門した当時の高砂部屋に押し相撲の力士が多かったこと、スカウトしてくれた富士錦さん(故人、先代の高砂親方)が押し相撲を徹底して教えてくれて下地をつくってくれたからに他ならない。大きくて四つ相撲のセンスのある人に、小さい体で勝とうと思えば回転よく突っ張るしかない。

    一緒に体を大きくしけいこしてくれた先輩にも恵まれた。そして、同じ部屋にいたのが高見山関(現東関親方)。あっという間に出世したから、なかなかけいこ相手をさせてもらえなかったが、やっと体重が1年で25キロ増えて幕下に上がったころ師匠から許可が出て、ぶつかっていった。
     高見山関は胸が硬かった。おまけに胸毛が生えているから顔がこすれて痛い。でも、この大きな人を持っていけるようになれば怖いものはない。けいこにけいこを重ねたことで強くなれた。あの天覧相撲はそうした日々の延長線上にあったのだと思う。


    (スポートピア「暑い夏こそ体調管理」 日経新聞平成20年7月22日 掲載)

    名古屋場所と言えばやはり暑さ。後半戦に入った土俵も熱いが、外はもっと暑い。今年も初日の9日ほど前から蒸し暑い日が続き、35度超えも当たり前。いつも以上に体調管理が重要だ。
     現在の愛知県体育館に移る前、一九六四年(昭和39年)までは、少し南の金山体育館で行われていた。私も2年通い、六四年の最後の年には、スカウトしてくれた富士錦関が平幕優勝を飾った思い出がある。
     少しでも暑さをしのごうと、金山体育館には氷柱が置かれ、ボンベから酸素がシュワーと吹き出していた。実際にどれだけの効果があったか分からないが、気分的には少し涼しくなった気がしたのを覚えている。

     当然、クーラーなどはない時代。平均気温を比べれば、温暖化が進む現在の方が高いのかもしれないが、名古屋は風があまり吹かないから当時から暑かった。蚊も多く、蚊帳は欠かせなかった。

     山梨県出身の私は汗っかきで、夏が苦手。冬の方が得意だった。一方、常夏の島、ハワイから来た高見山関(現・東関親方)は暑さに強く、日本のまとわりつくような湿気にも対応できていた。反対に冬はからっきしダメで、「寒い、寒い」と泣きが入った。
     所属した高砂部屋は恵まれていて、現役時代の途中からは関取衆の部屋にはクーラーがあった。相撲部屋としては早い方だったと思うが、クーラーがあったらあったで問題が出てくる。つけっ放しでいいわけがなく、こまめに切るようにした。


     親方になり、弟子にも寝る際はタイマーを入れるように注意している。放っておくと、布団をかぶらないと寒いほど、きんきんに部屋を冷やしたりするから、最初の1,2時間だけつけるように指導している。体が冷えると体調を崩し、ケガにもつながるからだ。
     以前のスポーツ界には「暑くても水は飲むな」といった根性論がはびこっていた。角界でも水は口に含む程度だったが、親方になって少ししたころ、弟子の一人が脱水状態になった。お医者さんに「けいこ中もスポーツドリンクを適宜取った方がいい」と言われ、以来水分補給には気を使う。
     一方で冷たいものばかり飲みがちになる。特に若い子には注意が必要で、食事の基本から教えなければいけない。暑い夏こそ、しっかり食べて体をつくることが大事。間食を減らして、稽古後の朝食兼用のちゃんこと夜のちゃんこに集中する。さらっとした食事だけではダメで、食の太い人は年をとっても頑張れる。経験で言うと箸(はし)が遅く、だらだら食べる人は強くならない。

     荒れるといわれる春場所よりも、名古屋場所の方が平幕優勝が多いのも、暑さと無縁ではないはず。プロとして体調管理に努め、けいこができた力士は名古屋でも好成績を残せるだろう。


    (スポートピア「いでよ、個性派力士」 日経新聞平成20年9月2日 掲載)

    個性派力士が減って久しい、と言われる。確かに昔は個性的な人が多かった。強引なつりで有名だった陸奥嵐さん(元関脇)は「東北の暴れん坊」と呼ばれ、アゴを上げて天井を向いて相撲を取っていた。体が柔らかくてバネがあったから、できた芸当だった。
     個性のある人にはあだ名が付く。激しいぶちかましで「褐色の弾丸」の異名をとった房錦さん(元関脇)、低く潜る取り口から「潜航艇」と呼ばれた岩風さん(同)・・・・・。挙げるときりがない。私も"突貫小僧"のニックネームを頂いた。

     現在なら、右上手を引けば百人力の魁皇、突っ張りの千代大海、右をねじ込んで出る十両の北桜あたりだろうか。個性派と呼ばれる力士は自分の「型」を持っていて、土俵でも迷わない。息の長い人も多い。個性派同士の対決となれば、どちらが先に自分の型に持ち込むかが勝負で、その攻防が取り組みを多彩にする。

    入門すると、「押せ」と教えられる。「押さば押せ、引かば押せ」が相撲の基本。全国から集まる弟子は一様にそこがスタートラインで、徐々に型を作っていく。 ただ、最近は少し事情が違う。子供のころから相撲道場に通い、中学、高校、大学と相撲部に所属する力士が増えた。なぜ個性的な力士が少なくなったか考えてみるに、そうした点が少なからず関係していると思う。
     アマ相撲からプロに入った力士は穴が少ない。小さいころから鍛えられ基本が身に付いているので、そつがない。だが、アマ相撲の大会は基本的にトーナメントの勝ち抜き戦だ。団体戦にしても、負けたら終わり。仲間にも迷惑を掛けたくないから、どうしても"負けない相撲"が身に付く。小さくまとまる傾向があるというか、関取昇進が早い半面、横綱になった学生相撲出身者がほとんどいないのは、それも影響している気がする。

     大相撲の場合は15日間(幕下以下はうち7日間相撲を取る)の勝負だ。1つ、2つ負けても取り返せる。仮に負け越しても、次の場所で取り返せばよい。"三年先のけいこ"と言われるように、先を見据えて心身を鍛えることを重視する。
     また、以前は部屋の数が少なかった。現在(53)の半分かそこいらで、1部屋の弟子が多い。師匠や部屋付き親方では手が回らず、しばしば兄弟子が教えていた。基本は同じだか、そうした事情ゆえ自由な部分も多かった。それも個性を伸ばす上ではプラスだった。


     個性的とは、裏返せば穴が多いということでもある。師匠の目が届く今は、昔なら放っておかれた特徴が早めに矯正される側面があるだろう。
     いずれにしろ、基本は師匠が教えるが、型を作るのは自分自身だ。不器用でも愚直にけいこして大化けするか、器用貧乏で終わるか。己を知り、個性を磨いてほしい。


    (スポートピア「謝り反省する心」 日経新聞平成20年10月21日 掲載)

     先月の秋場所初日、恒例の協会あいさつで武蔵川新理事長(元横綱三重ノ海)が謝罪を行った。「この度重なる不祥事に関する責任はすべて私ども日本相撲協会にあり(中略)多大なるご迷惑とご心配をお掛けし、大変申し訳なく、心よりおわび申し上げます」。明確に謝ったことは、よかったと思っている。
     当然、遅きに失したとのご批判があるだろう。私もそう思う。もっと早く、前理事長の時に誤っておくべきだった。各師匠の責任が重大であることとは言うまでもないが、それを束ねているのは理事長。卒先して、こうべを垂れるべきだった。 


    昨夏の朝青龍の"サッカー騒動"にしても、すぐに師匠や理事長が呼びつけて雷を落としていれば、あんな大騒動になっていたか。欧米では先に謝ると後で責任を取らされるという考え方もあるようだが、ここは日本。やはり、失敗したなと思ったら、まず「すみません」だと思う。
     完璧な人間などいない。若い衆だけでなく、親方だってミスをする。大事なのは、すぐに反省する心があるか。その有無で成長の度合いが違ってくるし、さらに大きな過ちを犯さずに済む。年代こそ違え、間違ったら「すみません」、人に何かしてもらったら「ありがとう」「ごっちゃんです」が基本だ。

    角界にいると、後援会をはじめ、いろんな方によくしてもらう。大したお返しもできないのに、何でこんなに応援してくれるの、と思うこともある。ただ、それに慣れてしまうと勘違いする。「ごっちゃん体質」と批判されないためにも、弟子には口酸っぱく注意しなければいけない。
     謝るのも、ただ謝ればいいというわけではない。口先だけの言葉は相手の心を打たず、安っぽい土下座も同様だ。謝って終わりではない。しっかり反省し、同じ過ちを犯さないように努力しなければ、信頼されない。


    秋場所前、大麻所持で逮捕された元若ノ鵬に続いて、元露鵬と元白露山の兄弟が尿検査で陽性を示し解雇された件は、本当に落胆した。時津風部屋の力士死亡事件を受けて設置された再発防止検討委員会の一員として、結果は勿論、彼らが開き直ったような態度をとったことは、日本社会を理解していなかったのだなと感じた。
     力士会で抜き打ちの尿検査をすると決めたのは実施の4日前。知っていたのは大西祥平先生(慶応大学教授)ら外部委員を含めた同委のメンバーと北の湖前理事長、武蔵川現理事長だけ。かん口令を敷いて、「若ノ鵬以外の関取は吸っていない」と証明したくて実行した。
     結果は、暗転したが、厳しい態度で臨んだことは間違っていない。今後は「理事長の謝罪」を全協会員が心に留め、タガを締め直して、いい相撲をとること。ファンへの恩返しは、それしかない。



    (スポートピア「試される親方の根気」 日経新聞平成20年12月30日 掲載)

     今月十八日、時津風部屋の若手力士が死亡した事件の判決が名古屋地裁であった。暴行に加わった3人の兄弟子は懲役2年6月から3年(執行猶予5年)の有罪。同日、相撲協会を解雇された。

     3人とも執行猶予がついたのは、「弟子が親方の指示に逆らうことは極めて困難」と認定されたからにほかならない。前・時津風親方の裁判はこれからで、厳しい判決が予想されている。

     どうして死ぬまでに暴力を加えたのか。いまだにわからない。ただ、師匠の責任の重大さが司法の場でもはっきりした。それを各師匠は改めて肝に銘じなければならない。裁判長は「体罰が常態化していた面がある」とも指摘していて、各界全体が本気でこの判決を受け止めないと社会から信頼してもらえなくなる。


     相撲協会は二十六日、親方から呼び出しまで全協会会員を呼んで「研修会」を開いた。土俵での所作や力士の気構えはもちろん、日常生活から性感染症まで約2時間、外部役員にも話をしてもらい周知徹底をはかった。
     もちろん、これだけで改善されるとは思っていない。しかし、何か行動しようと動き出した武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)の思いは伝わってきた。私が注意しても「またオヤジが同じことを言っている」と思う弟子もいるから、いろんな人が注意してくれたのは意味があった。折にふれ、たがを締め直したい。


     昨年の時津風部屋事件を機に、けいこ場で竹刀や指導用の棒を撤去することになった。竹刀にはピシッと音を立てることでけいこ場の空気を引き締める効果もあったが、それを放棄してやり直そうということだ。
     実行してみて、教えるとはすなわち「根気」だなと痛感する。親方の忍耐力が試されるといってもいい。ルールを破ったときなど、お尻をピシッとたたいて終わりという部分があったが、それが禁止となれば何度でも説明し、言葉を変えて粘り強く注意するしかない。

     私の部屋は最近、古参の力士が引退して弟子が若返った。中卒の子を中心にスカウトし育てているため、20代は2人だけであとは10代。指導が難しい周期に入ったなと留意している。というのは、まだ体ができていない子が多いから、けいこのさせ方も、よく考えなければいけない。番付も三段目から序ノ口に集中し似たり寄ったりだから、1場所か2場所で立場が入れ替わり、上下関係が複雑になったりする。

     そこで現在、部屋頭の幕下、飛翔富士に「私が所用でどうしてもけいこを見れないときは、お前が下のけいこをよく見て、あまり苦しそうなら止めないといけないぞ」と自覚を促した。指導には根気とともに観察力が必要だ。あしき伝統を断つには、自分がやられて嫌だったことはやらないという決意が重要。良き伝統のみ継承すればいい。


     
    (「東関親方(高見山)45年」記事抜粋 日経新聞平成21年6月11日 掲載) 

     出身の高砂部屋で無二の僚友と言える存在だったのが、突貫小僧と呼ばれた元関脇富士桜の中村親方だ。
    中村親方は、「常夏のハワイから来て、その日が雪で寒かったと思う。19歳の高見山は馬力があって性格が良く、みんなが強くしようとした。そしてどんどん強くなった」と語る。

    富士桜は高見山の1年先輩に当たるが、高見山にはその先輩の記憶が数年なかった。「(中学を卒業してすぐに入門した)富士桜さんは15歳で年下。(角界では)1年先輩と言ってもなかなか覚えないんですよ。富士桜さんはずっと(番付の)下の方にいましたから。彼、本当に苦労してるんです」
    当時、部屋には60人近い力士がいて、中村親方は「おれはアンチャンとしか呼ばれない以下同文の相撲とり。おやじ(元横綱前田山)が自分でハワイから連れて来たから、それはもう高見山に一生懸命だった」。それでも高見山は人柄が良かったから、誰からも愛された。

     2人はほぼ20年間、一緒に土俵生活を送った。互いに燃え尽きるまで力士の手本として長く頑張ったから、高砂部屋は関取が途切れなかった。

     最後は富士桜が1年長く、1985年3月に引退した。地方場所でいつも相部屋だった2人は、最後の九州場所で布団に寝ながら「部屋を持ったらお互いに関取をつくろう」と誓い合った。
    余計なことだが、一緒に寝る時、さぞかしやかましかったのではと聞くと、中村親方は「いびきを気にしていたら、この(高砂)部屋にはいられない」。高見山のほか大関朝潮(現高砂親方)、小錦、水戸泉ら個性派の大型力士がいて愉快でにぎやかな部屋だった。
    ただ、当時はまだ外国人が親方になることに対して、風当たりが強かった。部屋を興そうと日本国籍を取得した高見山に「部屋をつくるなんて、とんでもない。ある親方は一代で終わり」と言う親方衆もいて悲しい思いをした。

     中村親方は「パイオニア(先駆者)として苦労したと思うが、優勝したし、横綱をつくったし、言うことなし。とにかく、お疲れさんだ。これから暇ができるから健康に気をつけて、ハワイでもどこでもゆっくりしてほしい」。




    (NHKラジオ深夜便「明日への言葉」平成26年10月17日 録音内容) 

    中澤嗣子(元大相撲女将)     ・力士を目指す若者と暮らして


    1951年愛知県生まれ 金城学院大学を卒業後1年余りで(富士櫻栄守)富士櫻関と出会いました。
    医者の家庭に育ち、相撲界とは縁も無く周囲からは反対されましたが、富士櫻の明るい性格と楽しい話し方に魅かれ結婚しました。
    当時 富士櫻関は前頭や小結として土俵を沸かせていましたが、結婚生活はマンション暮らしで2人の子育てをする普通の暮らしだったと言います。
    10年後富士櫻関が引退し、中村部屋を創設し、以来相撲部屋の女将さんとして力士を目指す若者の世話をすることになります。
    強い力士を育てようと、別の部屋の師匠や力士にアンケート調査をしたり、自ら大学院で力士の養成法を研究したりとそれまで相撲界には見られなかったことに挑戦しました。
    昨年中村親方が定年退職した為、26年間に渡る相撲部屋の女将さん生活を閉じました。

    武蔵川部屋が使っている稽古場(東京都江戸川区)が元中村部屋の稽古場でした。
    関取のおかみさんになって、部屋の女将さんになって36年間。
    退職まで元気で過ごせたことは良かったと思うし、若い目標を持った力士と同じ屋根の下で暮らして、私にとっても、支えになったし力になったのでいい人生だったと思います。
    何をしていいかわからないところから始まって、力士の役に立つ事はないかなあと思った時に、心理学とか力士の養成、と言う事で大学院に行く事が始まりました。

    親方との出会いは、 仲良くしていた家族が相撲好きだったことからでした。
    たまたま力士が遊びに来ているから来ないかと言われて、母と行ったのが、出会いの始まりでした。
    今までにないタイプで、性格も明るいのでこういう人と結婚してもいいかなあと、あまり考えないで結婚しました。
      相撲社会は、全然別の世界でした。
    マンション生活をしたが、1年の半分以上親方は地方場所等でいませんでした。
    結構、きっちり生活サイクルは決まっていました。
    子供は二人いました。普通の生活が丸10年続きました。

    中村部屋を創設
    土地探し、銀行とのやり取りなど大変だった。
    土俵のある建物を持つ事と、弟子が3人以上という規定があった。
    26年間中村部屋をやってきて、120人ぐらいくるが、1カ月で帰ってしまう人もいました。その中から関取としての十両以上は4名誕生しましたが、幕内力士は育ちませんでした。
    中村部屋の場合は中学卒業者にこだわり取ったので、関取になる確率は少なかったように思います。
    若い人を預かるので、さまざまな社会勉強もやらなければなりませんでした。
    相撲社会は番付けが全てですが、年上に対しても或る程度尊敬しなくてはいけないし、地位が上で有ればちゃんとした振る舞いをしなくてはいけない。

    歳を取ってゆくが強く成れない人は大変な実力社会です。
    団体生活 体罰、いじめなどは目に見えないところで起きているので、難しいが、伝統的教育の中にいじめに近い様な指導の方法が昔からありました。
    やらせてから駄目だったら注意する事が基本なので、普段やっていることを見ていないと判らないが、今の子は説明を受けてからやるので、なかなかそういう指導の方法に慣れるには時間がかかる、教える方もいらいらしたり、教えられる方もそんなことを言って、と言う気持ちがあるので噛みあうのが難しい問題が生じる。
    厳しさは大事だが、規則とかは、私が気付く様に努力して子たちに説明をした。

    五訓 〜歃は綺麗にすること
    ⊆分の事は自分ですること
    時間を守ること
    ぐЩ△和腓い声ですること
    ナ峪は大きい声ですること
    親方が作って毎日弟子たちに稽古が終るとやっていました。
    出来ないと、兄弟子たちから言われる。
    寝場所が変わったりした時には何かがあったことが判るので、様子を見たりする。

    主人富士櫻は途中首を悪くしたので、稽古場で稽古が出来ない時期もあり、首の筋力をつけるとか、トレーニングをして、弟子たちにもウェイトトレーニングをするように奨励した。
    トレーニングセンターに行く事も最近は一般的になるが、成果は本人の気持ちなので、なかなか難しいところがあった。(成果の上がる人と上がらない人がいる)
    通信制の高校に通わせた。
    親方がスカウトに行った時に断られる理由として、高校ぐらいは出したいと言うのがあった。
    大学院で知り合った方が通信教育の高校の秘書をしていて、話が進んで、始まった。
    大学院で人はいくつになっても、学ぶと変わるんだなと実感したので、年齢に関係なく学びたい思いがあったら、きっと豊かになるのではないかと感じていた。

    幕下まで行った人が身体を壊して、就職しようとするが、学歴が中学ではなかなか就職口が見つからないと言う事があったので、幕下迄行くと言う事は色々持っているので、ちゃんと評価して貰いたいと言う気持ちがあった。
    辞めた人が大学を目指すと言う子がいてとっても嬉しかった。
    部屋をやっていて嬉しい事は力士が入門してくる時と、十両に上がった時。
    入ってきた時は特別な気持ちです。(当人の決断、片腕をもがれるようだという親の気持ちなど) 弟子が急にいなくなったり、重い病気になったりしたことがあったりするが、そういったことを含めて後になっていい思い出の方が多い様な気がします。
    親方は、出ていったものは追わないが、頭を下げて戻ってきたものは受け入れ、何にも聞かない。

    私の通った大学院には色々な方がいて、それぞれの立場からいろんな話題を提供するので、相撲界だけの中にいて考えるのではなく、違った目で客観的に見る事が出来るようになったことが凄く良かったと思う。
    専攻は力士教育 修士まで行く。
    修士論文 伝統的にやってきたことにも、きちんと人を育てる要素があるので、それも大事にしなくてはいけないのではないか、という結論ですが、そのまま今の若い人に持ってきても無理なところがあるので、親方の立場からその違いに歩みよるとか、今まで以上に時間をかけるとかだと思います。

    今の子供の生活環境が全く変わってしまった。
    核家族化とか、生活が便利になってしまっているので、工夫が少ない。
    力士になる環境がガラッと変わってきてしまっている。
    海外の力士にくらべてひ弱、だが大事に育っているので愛情をかけられた分だけ素直さがある。
    環境が激変しているが、今まで大事にしてきたことを大事にしながらも、指導法などで何か変えていかないと、と言う風には感じる。
    親方の世代が若くなってきているので、それなりに考えていると思う。
    伝統の重みの中で、きちっとやってゆく事が相撲が生き残ってゆく道ではないかと思う。
    (相撲の素晴らしさとは)
    土俵の美しさ、勝負をする息気ごみは素晴らしいと思っています。




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